昭和四十八年三月五日
御理解第五十四節 「徳の無い間は心配する、神徳を受ければ心配はない、」
心配の無い世界、これが信心を、眞の信心を頂いていく者の、目当てだと思いますね。
徳の無い間は心配をすると、ですから心配が有る時には、自分は徳が無い証拠だと思うて、おかげを頂いてゆかねばならん。
物が沢山あったり、お金が沢山あったりすると、段々心配がふえてくる、お金がふえてくるに従って、物がふえてくるに従って、心配が出来てくる、これではつまりません。
ですから、どうでもひとつ、徳を受けて、心配はないとゆうおかげを頂き、その徳に伴うてくるところの、物であったり、金であったり致しますと、益々それは有難い、喜ばしいものになってくる訳です、そうゆうおかげを頂けとゆう事だと思うです。
お金が沢山あり、物が沢山あり、その上心配が有るとゆうなら、こんなつまらん話はない。
だから信心を抜きにして、貯めておるとか、儲かっておる、とゆうのは、それは心配を貯めておるようなもの、心配を言うならば、積み上げていっておるようなもの、そしてそれを又、子供に譲り、孫に譲るとゆう事になる。
どうでもひとつ信心の徳を受けて、心配はないとゆうところ、そこで私は思いますけれども、無いとゆう事、物が無い、金が無いとゆう事、そうゆう事の中から、私は信心の喜びと云うか、神様を信ずる力とゆうようなものが、出来てくる基礎とゆうものを、ひとつ作っとかにゃいかんと思う。
そこから頂けてくるおかげ、成程神様は間違いないなと、
昨日は四日ですから、神愛会です、先生方の信心研修でした。
熊本の富永先生が見えておりましたが、こゝでお取り次を頂かれる時に、頂いたのが、「自分の思いを洗い清める」と頂いた。
信心は日々の改まりとか、本心の玉を研くものと云われておりますけれども、本心の玉を研くとか、改めるとゆう事じゃなくて、もう、その時点、その時点で、自分の思いです、自分が今思うておる事を洗い清めてゆかなければいけない。
そうゆう私は、精進が大事だと思う。 昨日の御理解の中に、私が親教会の御大祭を拝みながら、折角お参りをさせて頂いておるのに、こんな心持ちでは相済まん事だと思うて、神様にお願いさせてもろうたら、御神前で装束を着けて、御大祭の奉仕をさせて頂いておるとゆう思いで、おかげを頂けとゆう意味の事を頂いて、あゝ本当にそうだったと思って、又改めて威儀を正し、そして装束を着けておるつもり、笏を持っておるつもりで、まあ座りなおさせて頂く気持になったら、それから段々、有難うなり、有難いお祭りを、終始頂く事が出来た。
そうゆうような事が、私は 洗い清める事だと思う
そん時、そん時の思いとゆうもの、例えばそんなら、今、私が思うておる事、それが大変有難い時もある、けれども自分ながら、浅ましいような事、自分ながら悲しゅうなる事を思うておる事がある。そうゆう時にです、私は、心を神様に向けていく事が、心を清めていく事、だから心とゆうものは、一辺清めておけば良いとゆう事ではない、日に何回も何回も、清め清めしてゆかんと、毎日お風呂に入って体を清めるように、矢張り心もその事が大事だと、
そうゆう信心にです、取り組ませて頂くとゆう事が、常時神様を心に頂いておく事にもなるのですから、ふしぎに、例えば心配な事があってもです、それが心配でなくなってくる。
徳を受けてゆくとゆう事は、私は、そうゆう精進だと思う。
昨日は、たまたま私の修行中の時分の、色々なお話をさせて頂いたんです、ですから云うなら、私のなんにも無い時、物もなからなければ金も無い、云うなら、もう無い無いづくしの時、私は云うならば、心配の無い生活、云うなら神様を信ずる事の出来れる修行。
そして神様の間違いなさを、積み上げてゆく時代。 今日中食べるものがあったけれども、もう明日は無いと、家内が申します。
それで今日食べられたとゆう事を、お礼申させて頂いて、もう明日は明日、とゆう心配の無い生活。 それが繰り返してゆく内にです、成程、神様が食べさゝずにはおかん、とゆう働きがあるものだとゆう、そうゆう状態になる時です、自分でそれを食べよう、自分でそれを得よう、とゆう時には与えられないけれども、お礼を云うところには、お礼を云わせてもろうて、明日の事はもう、神様にお任せするとゆう心にならせて頂いた時に、必ず与えられておる、だから安心、だから心配はない、だから神様の間違いなさを、愈有難いものにしてゆく事が出来る。
それを、云うならば基盤として、段々、そんなら物に不自由しない、昨日申しますように、お月次祭に、御神酒が百本も集まるような、鯛やら鰤やらがもう、何本も何枚もお供えがあるように、冷蔵庫の中と云うたら、大きな魚やら鯛やらで、いっぱいだとゆう程しの、云うならそれはもう、魚、御神酒だけの事ではありません、もう一事が万事、もう全ての事が、そうゆう豊かな、たっぷりとしたおかげが頂けれるように段々なってきた。
だから、そんなら私は物が出来てきたから、金が充分に頂けるようになったから、心配かと云うと、心配はない、それをひとっつも自分のものとか、自分の為とゆう事を思っていない、云うなら、無い無いづくしの時と同じ気持である。
例えて云うと、そんならこのお広前が火事に会って、又、灰になると致しますか、云うならば何かの事情で、大変心配な事が起って言わば裸一貫にならなければならない事があると致しましょうか、その事に例えば会っても、いつでも、火にも例えば焼けないと云うか、水にも流されない信心を、頂いておるとゆう実感、云うならば元の振り出しに戻らせて頂く信心、だから又、あの調子で信心さえさしてもらえば、有難い事になるとゆう確信が有る。
これは私のものだと、例えばこゝに、いろんな骨董品のようなものが沢山有ります、好きですから、やつぱり楽しいです、と云うてそれを破ったからと云うて、割れたからと云うて私は、そうら、そげんとをどうして破ったか、こげな大事なものをどうして割ったかとは、いつも思わない、あれが私のものだったらね、それはもう好きなものが破れたり、割れたりするなら、そうら惜しい事をしたなと云うに違いない、ですからそれも心配はない。
今頃は、随分骨董ブ-ムで、骨董泥棒が多いとゆう事ですけれども、私の方にもし、骨董泥棒が入って来るとするなら、まあ、大したものは無いに致しましてもです、それこそ、御自由に持って行って下さい、と云わんばかりに、各部屋にちゃんとある、鍵も何もかゝってない、心配はない。
してみると、私は段々、お徳を頂いていきよるとゆう事になるのです。 自分の思いを洗い清める、本当に自分の思いとゆうものを清めてゆくとゆう生き方、そうした神様へ、自分の心を向けてゆく精進をしておる時には、決して心配があるものではありません。
信心が疎かになる、清める事を改める事、研いていく事の精進を怠りますと、途端に心配がふえて参ります。
だから云うなら心配は、御神徳を頂いていく為の、一つのバロメ-タ-になるとゆう事が云えます。 その事が不安でたまらない、自分の信心は出来ておるようであるけれども、この程度だなと、思わせて頂いたら、本気で今のその心を、洗い清める事に精進したら良いのです。
信心の徳とゆうものは、そのようにして受けてゆくもの、そのようにして頂いてゆくもの。 そこで、そんなら皆さんが、そうゆうおかげを頂く為には、裸一貫にならなければならない、無一物のような状態にならなければ、と云うのじゃなくて、一切が神様の御物だとゆう事を、分かる事なんですよ。
損したところで、神様が損しなさるのであって、私が損するのじゃない、無くなったところで、私が物を無くするのじゃない、神様の物が無くなったとゆうだけなんだ。
そうゆう一つの観念とゆうものがです、段々、信心によって出来てくる、そうゆうおかげを頂きたい。
徳の無い間は心配をする、神徳を受ければ心配はない。
信心させて頂いて、お徳を頂く為に信心をさせて頂いておる、とゆうのが金光様の御信心です。
これはお徳を頂く為の小刻みな信心、とでも申しましょうか、私共が日のうち何回となしに、ほっと心配になる事が有る、又、ちょっと不安になる事がある、それを金光様 と、心を向ける、そのつどに私共の心が清められる、洗われる、不思議にその後には安心、神様にお願いをしてある事だからと、ゆう安心が生まれる、そうゆう、まあ小刻みな、そうゆう信心をです、しっかり身につけてゆくうちに、それが積もり積もって徳となって、心配はないとゆうおかげ、云うならば、反対に云うと安心のおかげ、とゆう事になるのです。 その安心とゆうのが、愈本当なおかげを開く、傘一本で開かれる道とゆう事は、そうゆう、安心一つで開く事が出来る道なんです、金光様の御信心は。
昨日末永先生が話しておりましたが、一緒の同期の方で、4名程まだ若い、二十二、三位で布教に出ておられる方達の話をしておりました。 今度入殿で、その方達に会って、まあ、しら真剣な布教に取り組んで居られる姿。
もうそれこそ、来る日も来る日も、誰あれもお参りが無い、それでもう、奥さんが出て行くと、もうカバンを持って出て行きなさった、どうも仕様がないから、御神前に向って、お願いをする、おすがりをするより他になかった、そしたら、又しばらくしたら奥さんが帰って来なさった、そうゆう話、
又一人も、これは上野先生の同期の人が、先日から、おかげの泉やらを先生が送ってやっとった。 もうすぐ返事が来るのに、返事が来ないと思いよったら、先日その方から返事が来た、夫婦でやはり布教に出て、全然人が助からない、人が参って来ないから、とうとう御主人の方の先生が、東京へ出稼ぎをしなさる事になった。
それで後には、もう無いと云うたら新聞紙一枚無い、と手紙に書いてあった、ところがその親教会になる所から、奥さんの里がこちらの八女郡の方なんですから、そこへ、こうゆう難儀をしよる、とゆう事を云うてやられたらしいから、お母さんからお金を少し送って来て、初めて、この切手代を得る事が出来たからと云うて、お礼と、そうゆう、しら真剣な修行しておるとゆう話をね、したゝめた手紙が来たとゆう話を、昨日 一緒に聞かせて頂いた。
私は、もう申しました。 本当に冒険と云やこんなに冒険な事はないなあて、徳の無い間は心配をする、徳が出来れば心配はない、とゆう 言わばです、神様を信じきるところの傘一本、も持たずして布教に出るなんて、もう本当に私は、それはそうゆう修行して、そこから徳を積み上げてゆくならまだヾけれどもです、しっかりこゝで修行しよる先生方の場合なんかは、本当にその一本の傘、言わば心配せんで済む程しの、信心を頂いておかねばいけんよ、と云うて話した事でした。
もうそれこそ、見るも聞くも涙と云うようなお話なんです。
今の家にはね、お広前に新聞紙一枚が無いて云う、そうゆう私は、金光様の御信心は、そうゆう事ではないと思う。
そこで例えば、そんならお広前で修行中にです、しっかりこゝのところに焦点を置いて、日々、云うなら心を洗い清める事に、精進させてもろうてです、その自分の思いを 洗い清めるところから生まれてくる安心、その安心をもって、布教に出らなければいけないよと、 例えば教会修行が長ければ長い程、そこんところをしっかり頂いていかねばいけん。
甘木の初代なんかは、大変な御修業なさったけれども、七年間でしたか、親教会に修行されました。そして甘木の里、全然見も知らん所へ出られたけれども、その時には もう出られた途端に人がどんどん助かった。
他の者は、もうそれこそ布教に出て、難儀苦労をしよが、安武さんだけはどうしてじゃろうか、と云うて他の先生方が云われた時に桂先生が「安武は舞台裏の修行が長かったからじゃ」と仰った。
だから花道に出た途端に、大向うから、パ-ッと声がかゝったようなもんじゃ。 私共がです、今日皆さんに聞いてもらいよるとがそこんところ、私共が日々こうやって、信心の稽古をさせて頂いてです、何を目当てに信心しよるか。
お徳を受ける為に、どんな場合であっても驚かんで済む、心配せんで済む信心の修行をさせてもらう、それを小刻みにです、私共は日々、心を洗い清めるとゆうような、いき方の信心をさせて頂いておるところから、不思議に心配であった心配が消える。
このようにしてお徳とゆうものは、積み上げてゆくものだと、
そのお徳が、云うなら心配はない、云うならば安心のおかげを頂くこの安心のおかげに伴うてくるところの、おかげでなければならないとゆう事を、今日は聞いて頂きましたですね。 どうぞ。